若者達を見ていると、将来の夢を持ち続けることのしんどさを抱く若者が多いように感じます。年長者からすれば、「甘い!」と言われかねないですが・・。
でも、興味があることがボンヤリしている若者の方が多いかもしれません。大人からは、本人達が認識できていない、目先のことを言われて育っているので、仕方がありません。別の言い方をすれば、大人の側の問題がそのようにさせていると考えるべきなのでしょう。
自分の興味のあることがあっても、それに、向かって取り組み続けるには、どのような経験が必要なのでしょうか。日本社会は、幸福度が低く、大人に近づくほど、自尊感情が高まらない社会です。これを言うと、未来に希望を描きにくいのですが、子どもや若者達にとって、未来が描きにくい日々を送っていると考えるべきなのかもしれません。生きる事がしんどい、やりたい事が見つからない、将来は自立はしないといけないとは思うけど、やりたい事がみつからないとか・・。
人生は、常に新しい出来事との出会いです。子どもや若者達からすると、成功、失敗のいずれかの物差しで、日常を見ているの可能性が高い。そして、やりたいことや、興味のある事の経験が、少ない生活ならば、プラスな感情は高まりにくい。失敗の恐れから、やりたくない、興味のある事、又はやりたい事はあるけど、やり続けることはシンドイ、そんな悪循環です。
悪循環の中にいても、そこから抜け出す原動力になることはどのようなものなのでしょうか。家庭にとって、我が子の成長は、大変気になる所。家庭が、子どもに対して、できる事は?。それは、人生の先輩として、見守ること、社会の戸惑いを感じている時に耳を傾けられる関係性を築いておく事と考えます。
ところが、その親子関係、家族関係が成り立っていない家庭が、少なくないのが、現代の日本社会が抱える課題かもしれません。親もまた、子ども時代からの、生活の中で、無理な生き方を強いられて大人になっている方々がいるからです。子どもを育てる営みには、親としての要求をだけを突き通せば、必ず子どもの成長に歪みが生じます。家庭には、家庭の役割があります。
一方で、子どもにとって、家庭場面以外の集団の生活の場では、自分を試すことが求められます。子ども達は、同世代の生き方を見て、自分なりにより良く生きたい、興味のあることをやりたいと考えるようになります。生きることに意味を見出すとは、きっとゴールあっての行動より、プロセスとしての活動や行動をする事で、はじめて、やりたい事、興味のある事を、実感できるものなのかもしれません。
この様に考えると、試行錯誤の上で、やりたい事、興味のある事が見えるわけです。目標がある、やってみたい事があるということは、既に踏み出している訳で、前に向かって生きる強さが現れていると考えたら、大人は、とやかく言わず見守る我慢がむしろ必要ではないでしょうか。